(はー、けっこう食べたなぁ。マジで多盛りだったしな…)

女将の好意は嬉しいのだが、若いといっても限度がある。

少し膨れ気味の腹ごなしにと外の空気を吸いに窓から屋根へと上る。

しばらく夜風にあたっていると、下からふいに声がした。

「れーいやっ、そっち行ってもいい?」

「えっ、茜莉!?待っ……、危ないって!」

止める間もなく、運動神経抜群の茜莉はするすると上ってきてしまった。

呆れ顔の苓夜に、あっけらかんと笑う。

「もう来ちゃったもん。いいよね?」

「……。好きにしてくれ…」

がくりと力なく項垂れる苓夜の隣に茜莉がちょこんと腰掛ける。

こんなところ宿の者に見つかったら怒られるに決まっているが、一息つくには最高の場所であった。

少し欠けている月が夜空に映えて、酷く美しい。

「きれいだねぇ……」

空を見上げて感慨深げにつぶやく。

同じく空を見上げながら、苓夜はつぶやいた。

「なぁ」

「……んー?」

「旅は楽しいか?」

「……うん。大変なこともいっぱいあるけど、私は…今、生きてるって感じられるの」

茜莉は淡く微笑む。

「悲しいことあったけど、こうして自然はいつも私たちに優しくて……癒された。山も森も川も太陽も風の感触も、大地のニオイも…みんな、優しくて力強くて。
つらくないなんて…言わないけど、それに勝る喜びを見つけたわ」

自分の足で歩く実感。

踏み出した世界は、果てしなく無限の広がりをもっているように感じられた。

それは、生きているという、喜び。

「喜び…か」

「苓夜は、……楽しい?」

茜莉の声が心持ち小さくなったような気がして、横をむく。

そこには、変わらず笑顔がある。

だが、気のせいではない証拠に茜莉は遠慮がちにつけたした。

……私といて、楽しい?、と。

「茜莉?」

「私は楽しいよ。とっても。苓夜と櫻さんが一緒じゃなかったらこんなに楽しくなかったんじゃないかってくらい、楽しい。でも…苓夜は、楽しい?私……………迷惑じゃない?」

苓夜は何と返そうか考えて………やめた。

「馬鹿」

「いたっ」

苓夜が左手で茜莉の頭を軽くはたいた。

ビックリして、目を見開きながら苓夜を見つめる。

苓夜は碧い瞳を細めて、苦笑していた。

「誰もそんなこと言ってないだろ?そりゃ、戸惑っているよ。色々と。…けど、俺は……俺自身は、楽しいと思っているさ」

「…ホント?」

「ああ」

肯定の返事に、曇っていた茜莉の表情が、ぱっと明るくなった。

「ホント!?ホントねっ!あー良かったぁ。そう言ってもらえて嬉しい。ありがとね、苓夜」

嬉しさを隠せない様子の茜莉に、苓夜もつられて口元を緩める。

ひとしきり笑った後、茜莉はふと苓夜に尋ねた。

「ねぇ。苓夜は何で旅をしているの?」

一瞬、迷う。

「俺は……ある人を探しているんだ」

目を閉じれば、瞼に鮮やかに浮かぶ。

優しげなまなざし、金に波打つ髪。

笑い顔も泣き顔も、今だこの胸に焼き付いている。

忘れたことなどない。

ただの、一度も。

「雲を掴むような話だけどさ。生きているなら……一目会いたいんだ」

「……そう。…うん、私も祈ってる。苓夜がその人に早く会えますように」

もう体に染み付いているのか、黎玖撫教の祈りをする茜莉。

その横顔を見るとはなしに、見ていた苓夜は首を傾げた。

「それ、何だ?」

茜莉の耳のあたりを指して言う。

そこには、赤い刺青が小さく彫られていた。

何か文字のようなのだが…よく分からない。

茜莉も思い至ったのか、ああと口を開く。

「これ、昔からあったの。神殿に拾われた時から。たぶん、赤ん坊の頃に彫られたんだと思うんだけどねー」

「へぇー」

「あっそう言えばー」

思い出したかのように声を出す茜莉。

「?」

苓夜には何だか分からない。

「あのね、さっきお風呂で不思議なアザをしている子を見かけたの」

「アザ?」

聞き返す苓夜に茜莉は重要な一言を告げた。

「うんうん。今の話で思い出したんだけど。ここの宿の女の子でね、わき腹に二重円のアザがあったの。珍しいでしょ」

「―――――え!?」









その夜、人の気配の薄い外との境界をつとめる村の門では一つの小さな影が旅立とうとしていた。

厚手のマントにすっぽり包まっていて、顔もあまり見えない。

しかし、門番はその人物を知っていたから普通に閂を開けた。

「何もこんな夜中に出ていかなくても…。」

いちおう止める言葉をかけてみるが、その人物は受け入れる気がないのかふるふると首を横にふる。

さらり、と黒い漆黒の髪がフードから零れ落ちた。

門番は嘆息をついて、開いた。

「ま、気をつけて行けよ」

影は礼も言わず、闇の中へと消えていった。

もともと無愛想な子供だったが、今は本当に何を考えているのか分からない。

ま、いいかと門を閉めながらもう一度外を見た。

吸い込まれそうな暗闇に、門番はブルッと言いしれぬ寒気を感じて、今度こそきっちりと閉めた。

子供の影はもう何処にも見えなかった―――









「ああ、その子は洙夏(シュカ)だね」

女将は特徴を聞いてすぐに思い至ったようだった。

次の日の早朝。
珍しく早起きした苓夜は茜莉を連れて女将のもとへと向かった。

茜莉が見たという、例の少女のことを訊くために。

すでに起きて仕事を始めていた女将を食堂の入り口でつかまえて

下働きの子と言って名前をあげる。

「洙夏?」

「そうそう。もう5年になるかね。流行り病で両親を亡くしたあの子を住み込みで雇ってやったのさ。けど、グズでねぇ。無愛想だし、とても客前には出せないということで下働きに使ってたんだよ。……あの子が何かしたのかい?」

問われた茜莉はぶんぶんと勢いよく首をふる。

「いえっ!ぜんぜんっ!ちゃんとお風呂掃除やってたしっ」

「そうかい。そりゃ良かった。最後まで面倒を起こしていったのかと思ったよ」

「え…」

瞬間、考える。

「…最後ってどういうことですか?」

イヤな予感がひやりと身を掠める。

女将はこともなげに言った。

「出て行ったんだよ、昨晩ね。なんでももっと都会で幸せをつかむんだと。まったく、今まで食わせてやった恩も知らずに…」

「――ちょっ!待って下さい。その…洙夏はもうこの村にいないんですか?」

「…だからそう言ってるだろう。何だい、あの子に用でもあったのかい?それは残念だったね」

「……」

いない?もう、この村に?

……凶印を抱えたままで?

「苓夜、どうする?」

(…と言われても)

苓夜は小さく息をつく。

どうして昨日のうちに聞いておかなかったのかと悔やむが、すべては後のまつりだ。

「女将さん、その子がどこに行ったのか分かりませんか?」

苓夜の問いに女将はかぶりをふる。

「さあねぇ。東の方ってのは聞いたが……そうだ、門番にでも聞いてみなよ。昨晩、洙夏を見送ったのはソイツさ」

それだけ言うと忙しそうに去っていってしまった。

「門番か…」

「んー…でも知ってるのかなぁ。あんまり人と喋らない子みたいだし、見送ることになったって言っても行き先なんか言わないと思うケド」

茜莉からまともな意見が出ると、うーんと唸って苓夜は黙り込んだ。

けれど、このまま黙って放置するワケにはいかない。

凶印を野放しにすることは、避けなければ。

困ったように沈黙する二人の背後から、突然声がかけられた。

「行き先は、鳶(エン)だ」

「!?……おまえ」

声に驚いて振り向くと、廊下の壁に寄りかかるように男が立っていた。

昨日とは違い、頭には何もかぶっていないので一瞬分からなかったが、あの情報屋の男だった。

30代前半といったその風体は、こうして朝の陽の中で見る分には普通の旅人のようだった。

「何で教えてくれるんだ…?」

苓夜は怪訝そうに首をかしげる。

それに、情報屋の男はニヤリと口の端をゆがめてシニカルな笑みをつくった。

「アンタのおかげで昨日はいい酒が飲めたんでね。もってる情報は使わなきゃ、損だろ」

「ちっ、ちゃっかりしてるな」

苦笑して、懐から銀貨を一枚とりだした。

放り投げて渡してやる。

ずいぶん気前のいい額だったが、昨晩から貴重な情報をもらっていることの礼としてならいいだろう。

「情報屋さん?」

それまできょとんとしていた茜莉だったが、苓夜とのやりとりを見てようやく彼が話に聞いていた情報屋だと分かったらしい。

物珍しいのかじろじろ見た後、にっこりと笑った。

「教えてくれてありがとね!とっても助かった〜」

「いや…」

握手までされた後、情報屋は「じゃあな」と言って食堂のほうへと消えた。

すれ違うとき苓夜は彼の横顔をちらりと見て、…こっそり忍び笑いをもらした。

(照れてたんだ、あれで)

あまり表情を出さない男の頬は、かすかに赤くなっていた。

「?どしたの?その…鳶、だっけ?に行くんでしょう」

不思議そうに尋ねる茜莉に、頷く。

「ああ。すぐにでも出発しよう。……そういや、茜莉」

「なにー?」

「その…驚くなよ」

少し言葉を濁した苓夜に、茜莉は分からないというふうに首をかしげる。

「鳶は…………巨大な、歓楽都市なんだ」


「…………えッ!!」




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