十五. 陽も落ちた頃、藍の空高くに三日月が浮かぶ少し肌寒い冬の夜。 春の暖かさはまだ見つけられなかったが、アリヴェンでは大して問題ではない。 北国では到底無理であろう真冬の農作業も、この東の土地では可能なくらい寒さが少ないからだった。 常春(とこはる)と呼ばれしアリヴェンに、真の春が訪れるのもそう遠くない季節。 アリヴェン城の地下にある厨房へと続く道を、ライナは一人歩いていた。 場内の明かりはすでに落ちており、ところどころに常夜灯があるぐらいで石の壁に囲まれている廊下はかなり暗い。 それに、ひと気がない所為かひんやりとした静けさが漂っていた。 こつんこつんと軽い音を反響させながら、階段を下りていく。 (えーと、あとは厨房回って中庭行って終わりかな?) 自分が回ってきた場所を思い出しながら、確認する。 <刀>たちが自主的に行っている見回りの内容だった。 最初はカインが一人で行っていたものをケイリャが知ったのがキッカケで、今では夜の見回りはカインと<刀>全員が交代で行うようになっていた。 リーシェには未だに内緒にしている。 知らせるのは何か起こってからで十分。余計な心配をかけたくないのは、皆同じ考えだった。 (けど水くさいなぁ、カインも!僕にくらい教えてくれたっていいのに) 眉をよせて今では同僚となった友人への文句を浮かべたが、ライナはそこでふと立ち止まった。 もしかしたら…と、考える。 もしかしたら、城へ無理やり連れてきた時のことが原因かもしれないと。 そんなことはないと思うし、カインがそういうわだかまりを残したまま仕事を引き受けたとは考えられない。だが、あの一件がライナの小さな負い目となっていた。 (忙しくてあんまり話す暇がなかったしね。今度、下町の美味しい酒場にでも連れて行ってみようかな。……うん、そうしよう!) 昔から、喧嘩した後には二人でとことん酒を交わすのが常となっていた。 今回はいつもとちょっと違うが、久々に二人で話したくもある。 少しだけすっきりした気分になって、ライナは厨房に続く扉を勢いよく開いた。 …………と。 「あれ?」 しんとした、無人のはずの厨房に人の気配らしきものを感じて立ち止まった。 気づかないくらいの…―――――殺気。 ライナは小さく息を吐くと、棍をしっかりと握り締める。 戦闘特有の“気”が、四肢にまで行きわたっていくのを感じた。 一歩ずつ床を踏みしめながら、視線だけを室内に滑らせる。 傭兵をやめてから数年の歳月がたっているが、夜目が利かなくなるほどぬるま湯な生活をしていたワケじゃあない。 磨かれた鍋、火の落とされた炉、名のある職人の手によって作られた食器の数々、……一日の仕事を終えて明日までゆっくり眠りについているそれらが、暗闇の中きっちりと厨房のあちこちに収まっている。 右に視線を動かすと、食料を保管している棚が見えた。そういえば、ケイリャが盗み食いをするのを止めてくれと料理長に頼まれていたのを頭のすみで思い出したが今はそれどころでない。 左に視線を動かすと流し場があった。遅くまで見習い料理人が使っていたのだろう。そこは、まだ少し濡れていた。 一通り厨房内を見やる。……しかし、人の姿はなかった。 気配だけがライナにその存在を訴えている。 微弱なため、場所を特定するには至らないがこちらを伺っているのだろう。 隙を見せるのを、待っている。 「…いるのは分かっているんだ。大人しく、出て来い!」 一瞬の間。 ふいに、背後で風がなった。 「―――――…っ!」 パアンッ 勢いよく風をきって飛んでくるものを、咄嗟に剣か何かだと思い込んだのがいけなかった。 受け止めるべく顔の前に構えた棍に小さな衝撃がくるのと、破裂音が響いたのは同時だった。 「……、ごほ……っ!な…に?」 粉のようなものを吸い込んでしまって、ライナは反射的にむせてしまう。つんとした臭い。 途端に、目の奥に激痛がはしった。針でつかれたような、鋭い痛みだ。 ずきずきと絶え間なく襲い来る痛みとともに、自分の意思ではない涙が流れてくる。 当然目を開けることもかなわず、平衡感覚をなくして地に膝をついた。 からん、と棍が乾いた音をたてて床を転がる。 まずい、と思った。 だが、敵はそれ以上攻撃を加えることなくぽつりと呟く。 男の声だった。 「…………こやつ、見たことがある。<刀>の一人だ」 「そんな…っ。ど、どうするのです?」 もう一人、おどおどとした女の声がした。敵は二人だったのだ。 「気にするな。我らの顔は見られていない。さあ、先にゆけ」 「で、でも…」 「時間がないのだ、キーマ!さっさとゆけ!」 「は、はいっ!!」 女が勢いにつられて返事すると、ぱたぱたと階段を駆けていく音が聞こえた。 残された男がライナを伺う気配を見せた。 「ふ…目前で逃げられる気分はどうだ?<刀>の者よ」 「……くやしいね。目さえ見えていれば絶対に逃がさないのに」 「負け惜しみか?だが、現におまえは我らを捕らえることができていない」 「卑怯な手のおかげでね」 「くく……それは褒め言葉として受け取っておこう。今宵はこれでひきあげる。次のときは、是非お手並みでも拝見させてもらおう」 女王に宜しく伝えるがいい、と言い残して男は去った。 「くそっ!」 がん、と手近にあった調理棚を殴りつけた。 腕にじわりと痛みが広がるが、賊を取り逃がした失態を思うと大したことではない。 両目も刺すようなものからじくじくとした痛みへと変わっていたが、相変わらず両目からは涙がこぼれていた。 この類の薬は以前にも味わったことがある。あと数刻もすれば効果が切れてくるだろう。 そんなことよりも。 ライナは先ほど殴りつけた棚へと背をあずけた。 もう今夜は賊が出ないだろう。どうせ夜明けまで時間はたっぷりとある。このまま休んでいこう。 全身の力を抜きながら、ライナは静かに息をついた。 * * * * 時は少し戻り、夕陽が地平線へとその姿を沈めようとする時刻。 そろそろ城の表門が閉まる頃合に、2階の廊下でカインは声をかけられた。 「あ、カイン!」 「リー……あ、いえ陛下。何か御命令が?」 普通に名前を呼ぼうとして、彼女の背後に見知らぬ貴婦人がいるのを見て言葉を変えた。 公用での猫かぶりモードだ。 カインが普段生活しているこの城の中では早々にかぶるのをやめ、最近では彼に注意をする者もいなくなっている。もっとも、表だってはだが。 それでも見知らぬ者の前では、他国からの使者の場合もあるので礼儀正しい騎士のように振舞っている。 今回もそれを考えたのだが、どうやら違ったようだった。 「大丈夫。彼女は身内よ。ソアラ・ギース公爵夫人、世間で言うところの私の叔母にあたる方よ。ソアラ夫人、これが私の護衛のカインです」 ハシバミ色の豊かな髪を結い上げた妙齢の貴婦人は、リーシェの紹介に上品そうに笑みを浮かべた。 春の花のようなやわらかい笑顔だ。 美人というほどでもなかったが、人を穏やかにさせる雰囲気をもっていた。 「まぁ、貴方がカイン様なのですね。噂通りとてもお強そうなお方。初めてお目にかかりますわ」 そう言って、手を差し出す。貴族のたしなみ。 「こちらこそ。マダム」 猫かぶりをやめたカインは短くそれだけ言って、ソアラの手を取り甲に口付ける。 言葉のぞんざいさよりも、洗練されたその挨拶にソアラは満足気に笑みを返しただけだった。 リーシェがそれに安心したように笑みをこぼすと、さらに説明を加える。 「ソアラ夫人はとても刺繍飾りが上手なのよ。だから時々こうして教えてもらっているの」 「いいえ、陛下。それほどでも……」 「そんなことないわ!あんなに美しい薔薇細工をできる方を、私今まで見たことないわ。ソアラ夫人は…」 「―――へいか!」 二人が談笑する中、突然、幼い声が混ざった。 カインが目を見張りながら見回すと、ソアラのドレスの影からちょこんと小さな淑女の姿が現れる。 ハシバミ色の髪。一目で誰の子か分かった。 「イェン?」 「へいかっ、わたくしにも“しょうかい”して下さいませ!“きし”のおかたにごあいさつがしとうございますっ」 イェンと呼ばれた少女は、頬を赤らめて自分の存在を主張している。 どうやら無視されたことに、文句を言いたいようだった。 口調はたどたどしいが、プライドだけは一人前のようだ。 そんな可愛らしい注文に、リーシェもソアラも一様に瞳を和ませる。 「そうだったわね。ごめんなさい、イェン。…カイン、こちらはソアラ夫人の娘にあたるイェン・ギース公爵令嬢よ。今年で4歳になられるのでしたわね?」 「そうですわ、へいか。……はじめまして、カインさま。イェンともうします」 先ほど怒ったときとは一変して、しずしずと母親を真似て手を差し出してくる。 カインはひざまずいて同様に貴族の挨拶をしてみせた。 「お目にかかれて、光栄だ」 ニッ、と笑みを加えるとイェンは真っ赤になってうつむいてしまった。 自分のドレスをつかみ、もう一度母親のドレスの影に隠れてしまう。 もう!とリーシェが視線をよこしてくるが関係ない。 年齢は問わず女性に対する礼儀とはこういうものだろうと、カインはそれをあっさり無視する。 りーシェは二人と連れ立って門の方へと歩いていった。 近衛兵が控えているので問題はないだろう。 ……と、人の気配を感じて顔をあげてみるとそれはメイゼスだった。 相変わらず不機嫌なのか地の顔なのか眉をしかめるようにして、近寄ってくる。 (なんだぁ?) その意図が分からず、内心首をかしげながら見ているとメイゼスはそのままカインの隣に立ち、遠ざかっていくリーシェたちに顔を向けた。 低い声で、こそりと呟く。 「あの方が、現時点での第一王位継承者だ」 言われた言葉に目を見開き、その視線をたどる。 その先にあるのは……未だ齢5にも満たない少女の姿があった。 「イェンが?」 「前王の弟殿下の御子だ。ギース公爵家の姫君であるが、王家の血を継いでおられる」 「ふぅん。次代の、ね…」 だが、何故王弟の子が公爵家の娘となっているのか? 幸せそうな家庭のようだったが、けっこう複雑なのかもしれない。 仲良く微笑む母娘の姿を見る。 しかしその裏には何が存在してもおかしくない世界だ。 カインは、だから貴族っていやだね〜と心の中で舌を出した。 メイゼスは再び口を開くが、リーシェに呼ばれて途中でやめた。 そのままカインを見ずに、歩きだす。 ソアラ達はメイゼスと顔見知りらしく、イェンが別れの挨拶に抱き上げてもらっていた。 (そういえば、俺も見回りの途中だったな) 窓から空を見ると、すでに陽が落ちてしまっていた。 窓は北向きであったが、西陽のカケラも見えない景色は暗い。 どこの店でも明かりをつけており、城下の町並みは幻想的に美しかった。 階段へ向けて歩きだしながら、カインは眉をよせて窓の外の遥か彼方を見やる。 アルヴェンの最北の砦。 領地として残っていたのが不思議なくらい、此度の戦争で激戦区となった地域であった。 いや、実際幾度も落とされたらしい。 だが、その度に取り戻し北の守りの要となっていたのだと、カインは聞いたことがある。 今はギース公爵が治める場所……その砦からは、未だ連絡がない。 コツコツと階段を下っていく。 途中ですれ違った衛兵に挨拶された。 (なにやってんだ…!) 今はいない大臣へむけて、文句を吐く。 本当ならば2日前に帰城している筈だった。 遅れは予想される範囲内の事だったが、連絡一つないのが気にかかる。 ――――――何か、あったのか。 口には出さないが、リーシェも心配している。 あと数日遅れたら、こちらから早馬を飛ばすことになるだろう。 そうなると誰が行くかも問題になる。 (くそ…早く帰ってくるのを、祈るしかねぇか) ため息を一つついて、そこで考えるのをやめた。 目を細めて、目の前の扉を見やる。 ……厨房の扉が、ほんの少しだが開いていた。 剣の柄に手をかけながら、中へと入る。 「誰かいるのか」 「……カイン?」 小さな声がくぐもって聞こえた。 聞き覚えのある声に、足早に近寄ってその姿を探す。 「―――ライナ!?」 目を閉じてぐったりしている様子に一瞬最悪の事態を想像して、叫んだ。 だがそれは杞憂だったらしく、カインが呼びかけるとすぐに笑顔を浮かべる。 「はは、ドジっちゃった。ちょっと動けなくて誰かが来てくれるのを待ってたんだ」 「一体どうし……怪我でもしたのか?」 「ううん、目。粉状の薬で、目潰しの一種だよ。奴は一時的だといっていたから、後遺症はないんじゃないかな」 “奴”と言ったライナに、カインは眉をよせる。 ライナは見えてなくても、それを気配で感じ取ったようだ。 「現れたのか?」 「二人。一人は例の侍女と同一人物か分からないけど、キーマと呼ばれてた。もう一人は名前こそ聞かなかったけど、知っている声だった」 そう。ライナは男の声を知っていた。 実際話したことはない。けれど、セルヴィから注意するように言われていた貴族の一人だった。 「とにかく、キーマが怪しいと思う。明日にでも僕か誰かが探しに出るよ」 「……ああ…」 どことなくカインの沈んだ声に、ライナはおや?と思った。 肩口を押さえて支えてくれているカインの手に、ぎゅっと力をこめられる。 「くそ…っ」 憤るように、声を荒げた。 くやしかった。自分が自由に動けないのが、悔しかった。 友人がキズついている傍で、こうして見ていることしかできないのが悔しかった。 それが分かるのか、ライナは目をつむったままカインの手に自らの手を重ねて言葉を紡ぐ。 「…カインが陛下の傍にいてくれるから、僕たちは安心して動けるんだ。大切なあの方を、まかせられる」 「…………」 「必ず敵をつかまえる。それとも…僕が信じられない?」 カインは笑うような怒るような、中途半端に口をゆがめた。 重ねられた手を握り返す。 「…ばかやろう。誰が、んなこと言った。―――信じてるぜ。だが、死ぬなよ」 返された言葉は笑いながらも、自信にいろどられたものだった。 「それこそ誰に向かって言ってるんだい?」と。 Back/ Novel/ Next |
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